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司祭メッセージ
2005年11月
11月  「死者の月」を想う
ファム・ディン・ソン神父

今年は「地球温暖化」の影響でしょうか、世界各地で相次ぐハリケーン、台風、サイクロンに見舞われ、さらにパキスタンにおける大地震で多くの命が奪われ、多大な被害がもたらされました。また数百万人の人々が今尚、避難生活を余儀なくされています。先祖代々コツコツと積み上げてきた財産を一瞬にしてすべて失いました。やりきれない気持ちになっているのではないでしょうか。一日も早く復旧し、被害者の方々が新たな生活を始められるように、ともに心を合わせて祈りたいと思います。

 さて11月に入り教会の典礼は忙しい月になりました。1日は「諸聖人」の祭日であり、2日の「死者の日」、そして20日の「王であるキリスト」で教会の1年は終わりを告げ、27日(日)より新しい年を迎え待降節に入ります。自然界も秋が深まりつつあります。木々から舞い落ちる葉、それを自分の人生と重ね合わせると何となく寂しく感じます。年の終わりにあたり、キリスト者として自分の人生そして、その生き方を見つめる時期かと思います。11月は「死者の月」です。この月は特に「死者」のために祈り、(死者を)想います。この習慣は初代教会の頃から始まっていました。私が子どもの頃には、「死者の月」にお墓の前で“主の祈り、天使祝詞、栄唱”を唱えれば、その霊魂が免償されるという信心がありました。ヴェトナムでは今もその信心があります。
 聖モニカは臨終の床で息子の聖アウグスチヌスに「お願いがあります。あなたが祭壇に上がる時には、どうか私のことを思い出して下さい」と言い遺しました。人は最期を迎える時、誰もが恐怖心を抱くと思います。また、人には誰もが愛されたい、孤独になりたくないという自然的な願望があります。だから自分のことを忘れないで欲しいと願うのではないでしょうか。信仰の面からみると、誰かに「自分のために祈ってもらう」ことは、謙虚であると同時に限界のある、無力な自分を受け入れる印(しるし)だと思います。終わりとは「無になる」または「何もなくなってしまう」ことです。しかし「人の死」は違います。「無になる」、「終わる」のではありません。人が死んだとしても、この世では見えなくなるが、生きている人とは確かにつながっていて、糸を切るように途切れるわけではないのです。
 死者を想い起こすことは、私たちの信仰において大変大切なことだと思います。信仰では単に死が終りではなく、生のはじまりとなるからです。そのために、この世をいかに生きていくかということを考えるのはとても重要なことです。
 死に打ち勝つのは愛です。愛した人たちのために日々祈ることが大切です。そして、そのまことの命に近づくということは、小さな自分が少しでも病気の人のお世話をし、苦しんでいる人の相談相手になり、弱者のための手助けをするなど、支援を必要としている人に手を差し伸べることによって実現するのではないでしょうか。
 愛することは再生することだと思うのです。なぜなら人を愛すると自分が生き生きとし、まるで生き返ったような気持ちになるからです。愛する人のために祈り、人を愛する喜びによって自分が生き返る、そして、また祈る…この再生の繰り返しが私たちの信仰だと思うのです。今月は死者のための祈りを通して、小さく弱い私たち、ほんの小さな信仰しかもっていない私たちを神様が導いてくださり、まことの命への希望を強めてくださるよう祈り求めていきたいと思います。


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