ベトナムというと、「ベトナムは、フランスの植民地だったから、おしゃれなものがあるそうですね。」とか、「フランスの植民地だったからフランス語が通じるでしょう。」とか、多くの日本人はこんなことを言ってきます。あまりにこう言う人が多いので、正直いって、いい加減頭にきます。実際、多くのファッション誌や旅行ガイドは、ベトナムを“おしゃれな国”というイメージで紹介し、それはフランスの植民地だったからと理由付けているようです。やっぱり頭にきます。
なぜ頭にくるか、理由は二つあります。ひとつは、この考えは、フランス人をベトナム人の上においているように思えるからです。歴史の事実として、ベトナムはフランスに植民地支配されていたことがありますし、色々な面でその時代の影響があることも確かです。しかし、“そのおかげでベトナム人がおしゃれになった”なんて訳ないでしょう。ベトナムにおしゃれな物があるのは、もともとベトナム人がおしゃれだからです。
もうひとつは、フランスに植民地支配されたことが、良いことであったかのような意味にとれることです。植民地支配とはどういうことか、考えてみてください。それは、人が人を支配することです。支配される側は、どのような思いだったでしょうか。支配から解放され、独立するために、彼らがどんな苦労をしたでしょうか。挙句の果てには、同じ国民、同じ民族同士が戦争を“させられる”破目になり、殺し合い、憎みあったのです。そのときの傷と、それによる社会のゆがみは、未だに消えることはありません。それなのに、ひとつの面だけを取り上げて、しかも間違った認識の上に立って、植民地だった“おかげで”良いことがあったみたいな言い方をするのは、やはりおかしいと思います。
私自身は、「植民地」という言葉は、二つの面から良く考えなければならないと思っています。一つは、キリスト者としてです。キリスト教宣教の歴史のなかで、ヨーロッパの列強諸国による植民地支配の時代は、大きな意味を持っています。その時代、宣教者一人一人の思いは善意だったとしても、人が人を支配しているというゆがんだ状態のなかでそれは行われたのです。ゆがんだ空間で、真っ直ぐに線をひいたつもりでも、ゆがんだ線しか引けません。またそれは、自分たちは優れていると思い上がった人たちが、“劣っている”人たちを教育して、言葉も宗教も文化も、名前さえも変えてしまった時代でもありました。
二つ目の面は、日本人としてです。ごく近い過去に、日本は近隣の国を植民地支配しました。ヨーロッパにあこがれ、ヨーロッパ列強の真似をしてです。この事実について、「良いことだってしたんだ。」「もう六十年以上も前のことではないか。」「もう十分謝っただろう。」「何回謝ればいいんだ。」こんな声もよく聞かれます。人が人を支配するとはどういうことか、十分に考えての声なのでしょうか。相手を見下すということなしに、支配することはできなかったのです。その傷は、簡単には消えませんし、謝ってすむ問題でもありません。
これらの時代のことについて、わたしには直接的な責任はありません。しかし、それらの時代の影響の下に今の時代はありますし、それらの時代の“魂”は、確実に多くの人々の中に生きています。それらとどう向き合うかということにおいて、私にも責任があると思います。
どうかみなさんも、“植民地支配”とはどういうことか、よく考えてみてください。
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