ある家族が、海辺の別荘で夏休みを過ごしていました。毎日子供たちは砂浜に行って遊んでいました。 ある日、家族皆で浜辺にテントをはって海に入ったり、テントの中で休んだりしていました。子供たちは砂浜で、穴を掘って、砂で家や宮殿を作って遊んでいました。子供たちが夢中で遊んでいるところに一人のお婆さんが現れました。風に吹かれてぼさぼさの髪の毛、ぼろぼろの服を身に着け、ぶつぶつ言いながら、かがんで何かを拾って肩に下げているバッグに入れていました。
テントの中で本を読んでいた母親は、その光景みつめて、あわてて声を張りあげ、砂浜で遊んでいる子供たちを呼び戻し「そのお婆さんから離れなさい」と注意しました。
お婆さんは、その親子たちのそばを通った時、ニコッと微笑みかけました。でも、母親も子供も微笑みを返すことはしませんでした。 数日後、その家族は本当のこと知ったのです。
あのお婆さんは、長い間、砂浜で遊んでいる子供たちの安全を守るために、砂浜に捨てられたガラスの破片を拾うボランティアしていたということを。
約2000年前にキリスト・イエスは天からこの世に下り、人類に愛の道を教えてくださいました。 しかし、人間は傲慢でその愛を理解せず、受け入れることは出来ませんでした。人間はイエス・キリストの働きを誤解し、歩み寄ろうとしなかったのです。結局、イエス・キリストは人間によって十字架にかけられました。 愛のないところには誤解が生まれ、誤解によって争い、傷つけ合い、殺し合い…へと発展していき、伝染病のようになっていくのです。 この伝染病を食い止めるためには、普通の伝染病と反対に、互いに避けるのではなく関心を持ち、より豊かなコミュニケーションを保ち、よりよい交わりを深めていくことが必要です。
今年もクリスマスがやってきました。ケーキを買い、教会に行き、楽しい時を家族で過ごし、一瞬ですぎる。クリスマスはそうなんだろうか?そうであるなら救い主が馬小屋の中でお生まれになることはなんと空しい!!!
神様の「救いの計画」は人間の協力を必要とし、そのために神は母マリアを選び、救い主の母と定めました。幼子イエス・キリストがお生まれになることはそのしるしとなります。赤ちゃんは生きるために助けを必要とします。でなければ死んでしまいます。
クリスマスは人間における救いの計画の始まりであります。その救いのわざを完成するために、私たちは幼子イエスの手となり、足となり、口となり、心になって、いま必要としている人に手を差し伸べ、さびしくしている人の話し相手となり、悲しんでいる人の友となっていくことが、真のクリスマスにあずかることだと思います。
|