「私はぶどうの木、あなた方はその枝である。人が私につながっており,私もその人につながっていれば,その人は豊かに実を結ぶ。私をはなれては、あなた方は何もできないからである。」ヨハネ15・5
毎年お正月に行われる恒例の箱根駅伝は、多くの駅伝ファンにとって楽しみの一つです。駅伝は日本生まれの競技です。二日間かけて往復217.9km 10区間を10人で走ります。駅伝の面白いところは結果を予測できないところにあります。今年の大会の様に余り前評判の高くなかった東洋大が完全優勝を果たして駅伝の歴史に名を残すようなことがあるからです。万全に備えたからと言って、勝つとは限りません。10人の内の一人でも上手くつなげられなかったら、全員の命取りになってしまいます。
私たちの人生は駅伝競走のようなものです。祖父母から親へ、親から子へと。また、私たちは人と人との「つながり」によって生きているのです。その「つながり」がうまくいかず、途絶えてしまったら大変なことになるでしょう。それは「ひとは一人で生きることはできない」、互いに助けあうために人はつくられ、そして生きているからです。とはいうものの、現代社会に生きる私たちは互いの「つながり」がなくなりつつあるように思います。今の社会のあり方や家族、それに人と人のあり方においてそのように見えます。
最近、「キレる」人が多くなっているといいます。特に「キレる」子供が増加中だそうです。「キレる」という言葉を辞書で引いてみますと、なぜか表記は漢字ではではなく、多くは「キレる」と「カタカナ」と「ひらがな」で書かれています。やはり現代語で、現代病を指摘しているのではないでしょうか。もともと「きれる」とは、体の一部に傷がついたり、裂け目ができたりする、破れる、損なわれる、つながっていた関係がなくなる。続いていた物事が(そこで)終わりになる、尽きる、途絶えるなどの意味があります。
「キレる」人の多くはストレスなどが原因だといいますが、ストレスのもとはどこにあるのでしょうか。それは、本来つながるべきものが破れ、損なわれて、裂け目ができているからなのではないでしょうか。わたしたち人間は、便利さを求めて日々研究し極めています。遺伝子組み換え技術、クーロン技術、それにインターネット、携帯電話などの文明的なものは、本来ならば人と人とがつながるための道具として発明されましたが、現実にはつがなるどころか、私たちはそれらの道具に縛られ、使わされ、人と人の間に壁をつくり、つながりを傷つけ合うものになっています。
人と人とのつながりが途絶えつつあるこの現実を、私たちはどう受け止めていけばよいのでしょうか。私はやはり「家族」というものを改めて見つめなおすことがすべての始まりであると考えます。家族においての交わりが、やがて共同体へ、そして社会全体へとつながっていくのだと思います。
「二人または三人が、私の名によって集まるところには、私もその中にいる。(マタイ18 21)とイエスが教えています。キリスト者である私たちは、イエスの教えをより深く心に留め、家族、人と人とのつながりを大切にし、その交わりの中に主がともに居てくださることを悟り、主にそのつながりを堅固なものにしてくださることを願って、ともに祈りましょう。
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