先日、何気なくつけたNHKテレビで「直葬(ちょくそう)」についての特集がありました。「直葬」って何?と疑問をもちながらこの特集を観ました。番組が進むにつれて「直葬」という言葉の意味が少しずつ理解できるようになりました。しかし番組が終ってからも「直葬」というものが頭から離れず、「直葬」についてもっと知りたいと思い、インターネット辞書で検索してみました。すると、「直葬」とは「通夜・告別式などの儀式は行わず、自宅または病院から直接火葬場に運び、火葬にする方式のこと。平成10年(1998)ころから増えてきた、ということでした。
これまでは、人が亡くなってからは、死亡→通夜→葬儀・告別式→火葬というステップを経るのが一般的でした。これに対し、死亡→火葬と、途中の儀礼・イベントを取り払ってしまうのです。 以前は経済的に困窮している人、身寄りの無い人がやむをえず直葬をしていた(されていた)と考えられていました。ところが番組内のインタビューでは、現在直葬を希望する人たちの中には、経済的な理由ではなく、家族がいない、人様に迷惑をかけたくない、また葬儀について疑問をもっていて「直葬」を希望している人もいるということです。
人間とはいったい何でしょうか?誰もが父母によってこの世に命を受け、多くの人に支えられて育ち、そして成長していきます。そしてこの世を去って天に旅立ちの時も多くの人によって見送られるのだと思います。これが人間の自然体ではないかと思います。
母から聞いた祖父の話を思い出します。第二次世界大戦中、ベトナムの北部が戦場となり、食べ物がなく毎日人々が死んで行きました。貧しい生活を強いられたベトナム北部の
人々は生きていた時に食べ物がなく、死んだ時には棺すらありませんでした。祖父は教会の青年たちとともに、貧困で身内が亡くなっても埋葬できないご家族のところに行き、そのご遺体を引き受けて教会で埋葬する活動をしていたそうです。
昔の貧しい時代に比べ、文明が発達し豊かになった現代では、他者を思いやる気持ちが昔より希薄になっているのではないかと感じます。物の豊かさばかり追及していて、人間の“情”をどこかに置き忘れてしまって、それがどんなかたちなのかも覚えていないほどです。私たちは“もの”に満たされていくために、心が乏しくなっていくという大きな代価を払っているのではないでしょうか。
毎年教区から教勢調査の依頼が届きます。信徒数の増減を把握するためのものです。教会全体の信徒総数のうち実際日曜日に来られる信徒は約3割です。いろいろな事情によって教会に来られない信徒の方がはるかに多いのです。なぜ教会に来られないのか?病気なのか?事情があってなのか?などと私たちは真剣に考えたことがあったでしょうか?
私たちは同じ信仰を持つ共同体《家族》なのに、教会に来られないような兄弟姉妹たちに無関心になっているのではないでしょうか。家族ならばもっと違う対応をし、もっと真剣に互いに関心をもって関わりあっても良いのではないでしょうか?
社会の中に生きている私たち、日々の出来事に関心をもちながら、我が身を写す鏡として謙虚に受け止めていくことが人とのつながりの出発点になるかもしれません。
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