4年に一度のワールドカップサッカーが6〜7月にかけて行われました。かつて、人種差別の激しかったこの南アフリカで開催されたことは、とても素晴らしいことだと思います。スポーツはまさに「平和」の象徴だと言えましょう。それは、開催中の一ヶ月あまり、世界中のサッカーに興味を持たない人までもが、ワールドカップの行方にわくわく心を躍らせて、テレビに見入っているといった感があります。すべての力を出し切って決勝戦に進んだスペインとオランダ、その決勝戦が7月12日、日本時間夜中の3時に行われました。時差がありますが、世界中の人が国を超えて年齢差を超えて、同じ時間にそれぞれのテレビに映し出された同じ画面に見入って沸き立っていたことを思うと、「平和」そのものの姿を感じることは なんと気持ちの良いすがすがしさでありましょう。
ところで「平和」の二文字を改めてじっくりと考えてみますと、心に重くずっしりとしたものを感じます。とくにこの8月にはあの第二次世界大戦が終結を迎えた月であり、8月15日は日本においては終戦記念日でもあります。毎年「今年こそ真剣に「平和」を見つめていこう」と・・・。
しかし「平和」とは何ですか?と問いかけられたら、自分自身が何と答えるのでしょうか?と考え込んでしまいます。
力(核、強い軍事力)を持つことこそが「平和」を維持していくのだという暴論に、人々は惑わされています。
しかし、はっきりしていることは「平和」が人間のものではないということです。なぜならば戦争は「人間の仕業」だからです。とはいっても、 「戦争がある・ないことは、平和がある・ない」
というだけの問題ではないはずです。私たちの内に潜んでいるエゴが安らぎを破壊し、こころの乱れを引き起こすのです。それが争いの原点となっています。人類の歴史が始まった時から、人と人とは争い、傷つけあいながら、その教訓を学ばずに争いを繰り返しています。いかに人間のエゴが強く、愚かなものであるかということが浮き上がってくるのです。限りあるこの世の自分の満足を得るため、それを追い求め、その結果、お互いが憎み合い戦争がなくならないのです。
「平和」とはなにか?との問いかけを心に受けとめ、絶えず追い求めることによって、「平和」に辿る道が開けるのではないでしょうか。 アシジの聖フランシスコの「平和を求める祈り」の中に、
「主よ、わたしを平和の道具にしてください・・・。」という遺言を残しています。 この平和の道具になる為に私たち自身が「平和」を悟らなければなりません。
「平和」がわたしの内にとどまるのならば、「こころ、精神、思い、力を尽くして愛を実践(主への愛、隣人への愛)する」ことにつながるのでしょう。
神においての平和とは?仕えられるのではなく、仕える者になることをイエス自身が示して下さっています。真の平和は実に十字架にあるのです。 先ず隣人を愛することから積み上げていくことで「平和」というものへと到達することが出来るのだと思います。
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